地域の人の手で復元された、伊那市指定史跡「諏訪形の猪垣跡」

諏訪形(すわがた)<長野県伊那市>

長野県南部に位置し、南アルプスと中央アルプスに抱かれた盆地、伊那谷(いなだに)。その上伊那地域にある伊那市は、天竜川と三峰川の豊かな恵みを生かした農業をはじめ、加工技術産業、食品などの健康長寿関連産業が発展しているまちだ。
市内各地で、特色ある伝統文化が継承され、「やきもち踊り」や「羽広の獅子舞」、古来からの神事「御柱祭」などが住民によって大切に保存されている。
御柱祭が行われる西春近諏訪形地区にあるのが「諏訪形の猪垣跡」。1994年(平成6年)に市史跡に指定され、翌年に復元された。歳月とともに劣化が進むが、住民の間で再構築の願いが高まり、2009年(平成21年)に改修されている。
歴史ある猪垣を次世代に残したいという人々の思いが形になり、受け継がれている史跡だ。

40メートルに渡って復元された諏訪形の猪垣跡

中央アルプス・駒ケ岳の玄関口に位置する、伊那市の西山山麓。自然環境が豊かである一方、サルやハクビシンなどによる農作物の被害が多く、江戸時代はイノシシやシカに悩まされてきた。
当時は、小屋を作って夜通し火を灯したり板を叩いたりしたほか、穴を掘って誘い入れたり、鉄砲で威嚇したり、添水(そうず:田畑を荒らす鳥獣を音で脅す仕掛け)を設けるなど様々な方法で被害を防ごうとした。それぞれの地域が努力を重ねていたが、イノシシの生態から広域的に防ごうという考え方が生まれ、村同士が話し合って獣害対策として築かれたのが、猪垣だ。

「諏訪形の猪垣」は、藤沢川から大田切川までの標高700メートルほどの山麓に築かれた。構築された年は不明だが、江戸時代にかなり大がかりな工事が行われ、以後も歳月の流れとともに損傷が進むとしばしば修理が施された。
古文書では、1741年(寛保元年)と1808年(文化5年)に宮田地区と共同で再普請が行われたと記されており、特に1808年の修理は大規模とされる。諏訪形の呼びかけで、宮田3カ村、中越、下牧表木、赤木村と共同で代官に願い出て、諏訪形だけでおよそ延べ2600人、全体で延べ7200人余りの人足を動員したという。
その後も数多く、連名で人足要請を代官に願い出ており、当時の農家が農作物を守るための猪垣にかける思いは強く、その分、人足の負担も重くのし掛かった。
こうした猪垣の修理は、村の年中行事として、江戸末期頃まで定期的に続いていたと考えられる。

再現場所以外でも、猪垣の形跡が残っている

年月を経た現代でも、猪垣は西山山麓に築かれた形跡が多く見られるが、中でも諏訪形の遺構が比較的よく残されていたことから、伊那市教育委員会は1994年(平成6年)に「猪垣跡」として市史跡に指定した。
これを契機に、地元から猪垣跡の復元を望む声が高まり、市教委も先人たちが築いた貴重な遺構と位置づけて復元に乗り出す。市教委は諏訪形区と地元文化財保存研究委員会の協力のもと、古文書に記されている資料を基に乱杭と呼ばれる柵を再現。乱杭とは、直径15センチ、高さ1.2メートルの丸太だ。山側に1メートル50センチほど掘り下げた土手の上に、計34本の乱杭を設置し、約10メートルに渡る猪垣が完成した。

擬木と間伐材を使って復元されている

その後、歳月の経過とともに猪垣の劣化が進み、住民の間で再構築の願いが高まっていく。地元の西春近地域では2008年度(平成20年度)から農林水産省補助事業「農地・水・環境保全向上対策事業」に取り組んでおり、歴史ある伝統的施設を次世代に残そうと、改修工事を実施することに。維持管理も見据え、主杭には「プラスチック擬木」を採用し、1メートル間隔に打ち込んだ。主杭の間は、ヒノキやスギの大小様々な間伐材を縦木として、約20センチ間隔に配置。縦木の上下2カ所には、カラマツの横木も取り付けた。猪垣の長さも、10メートルから40メートルへと延長した。

現在、諏訪形地区の伊那西部広域農道に誘導看板があり、比較的スムーズに辿り着ける。
江戸時代は約6kmにわたって南北に築かれた猪垣は、中央自動車道のルートと並行する部分が多く、中央道からも215kmポスト付近で西側の日本アルプス方面を臨むと垣間見ることができる。

◎参考資料/『伊那農村誌』(向山雅重著)、『長野日報』、『The NAGANO Daily News』

<基本情報>
「諏訪形の猪垣跡」
●所在地     長野県伊那市西春近諏訪形地区
●市史跡指定日  1994年(平成6年)1月28日
●公開状況    伊那西部広域農道に誘導看板があるほか、復元場所に猪垣跡の説明や構造、改修の経緯などが記された看板がある。
●駐車場     なし
●規模      40m

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