全長612メートル。有形民俗文化財の貴重な石積み「万足平の猪垣」

徳川家康公生誕の地として知られる愛知県岡崎市。城下町・宿場町として栄え、戦後は多様なものづくりが行われてきた一方、市域の60%ほどは森林が占める。東部を流れる男川(おとがわ)上流の山深い里にあり、愛知県の有形民俗文化財に指定され保存されているのが「万足平の猪垣」。全国的にも珍しく、築かれた年代が明らかになっている石積みのシシ垣だ

 「万足平の猪垣」が作られたのは、江戸時代後期の1805年(文化2年)と1832(天保3年)。山林が広がり農耕地が狭かったこの地では、農民たちは年貢の上納や飢饉に苦しんでおり、やっと育った貴重な農作物も猪や鹿に荒らされる状況だった。食料が不足し、なかには命を落とす人さえいたという。田畑を荒らす動物から自分たちの生きる糧を守り、人の命を守ろうと、必死で石を積み上げ築いたのがこの猪垣だ。
猪垣づくりは、農民みんなで分担した。それぞれが持っている田の広さに応じて、猪垣を作る距離を割り振った。大きい石が積まれた区間がある一方、小さな石がたくさん使われている場所もある。おそらく、女性や子どもの手で積み上げられたのではないかと地元では考えられている。

猪垣は2度にわたって作られ、最初の1805年に東側の約500メートル、1832年に西側の約100メートルが完成した。この西側は、吉五郎という“名人”が手がけたと伝えられている。猪に乗り越えられないようにと、猪垣の上部が山側へ反った「シシ返し」があるのが特徴だ。石積みながら緩やかな曲線に、名人の技術力の高さがうかがえる。

猪垣の石材となったのは、万足平を流れる男川流域で取れる「領家片麻岩(りょうけへんまがん)」だった。粗粒の鉱物の層が薄く重なっている片麻岩は、平らな板状に割れやすいのが特徴。切り出した岩を平らに割って、1.6〜2メートルの高さまでいくつも積んでいく。積み上げる形もポイントで、猪垣の底幅は約1メートルに対して上部の幅は0.6メートルと台形状にすることで安定させた。下部には「根石」を置き、猪や鹿がヒズメを掛けにくい形や面にした。

また、石材の運搬には「車道」を使った。猪垣の脇に、幅1.2メートルほどの溝である「車道」が続いており、輪切りにした木で車輪を作った「ずん切り車」に載せて石材を運んだという。一説では、この溝は猪や鹿が飛び越えるのを防ぐためのものともいわれている。

(出典:額田町教育委員会「額田の石造文化」1974)

こうして人々の共同作業によって築かれた「万足平の猪垣」は、全長612メートル。台形の跳び箱が連なっているような景色が壮観だ。
1981年(昭和56年)、愛知県教育委員会から県有形民俗文化財に指定されている。

しかし、指定文化財になったものの人の手が長い間入らず、存在が分からないほど草に覆われ、随所で石が崩れた状態になっていった。こうした事態を変え、地域の財産でもある猪垣を守ろうと、2005年(平成17年)に地元有志が「万足平を考える会」を設立。生い茂った草を刈り、石工職人から技術指導を受け、崩落した石垣を手作業で修復している。ほかに、年に1度は地元の小学生を招き、石積みの体験学習や桜などの植樹を実施。文化財の修復保存にとどまらず、故郷の伝統芸能・文化を再認識し、後世への継承や地域活性化を図ろうと活動している。

また、万足平だけでなく、片麻岩を産出する男川流域では、他の地区でもシシ垣が築かれた。万足平を含む宮崎をはじめ、豊富(とよとみ)、大雨河(おおあめかわ)、鳥川(とっかわ)など旧・額田町内には、田畑の周りをぐるりと囲むようなシシ垣や、山すそに長く続くシシ垣が多く点在。その総延長は、実に50〜60キロにも及ぶ。全国でも類を見ないほどのスケールを誇る貴重なシシ垣が今も残っている。

◎取材協力/「万足平を考える会」会長 梅村奉英さん
◎参考文献/ふるさと読本『ぬかた』第3版

<基本情報>
「万足平の猪垣」
所在地     愛知県岡崎市中金町万足平
公開状況    通常見学可(無人)
アクセス    新東名高速道路「岡崎東IC」より約10km
駐車場     なし
指定(種別)  愛知県指定文化財(有形民俗文化財)   
規模      612m
指定年月日   1981年(昭和56年)2月23日
所有者・管理者 万足平を考える会
時代     江戸時代後期

(作成:T.Hanya)

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