田畑や暮らしを守りたい。 人々の思いが築いた「シシ垣」。

「シシ垣」という言葉を聞いたことがあるだろうか。昔から「イノシシ」をはじめ、シカやカモシカなどに田畑を荒らされて困った住民が、野生動物の侵入を防ごうと築いた囲いや仕切りのことだ。名称は「シシ垣」のほか、「シシカベ」「イガキ」などと呼ばれ、地域によっては猪土手(シシドテ)、猪鹿除(シシヨケ)ともいわれる。漢字での表し方も、猪垣、鹿垣、鹿石垣、鹿木垣とさまざまだ。
北関東から沖縄まで広く分布し、現在は住民の手で修復・保存がされ、歴史や文化を語る遺構として受け継がれているところも多い。
役割は、獣害だけでなく土石流災害からの防御を担うものもあり、名称にも違いがあって、地域性を色濃く映し出しているシシ垣。その成り立ちにふれ、人々の暮らしを守ってきたシシ垣の歴史に思いを馳せてみよう。

【歴史】縄文時代から繰り返されてきたイノシシとの攻防

イノシシなどの野生動物と人が関わってきた歴史は古い。イノシシは縄文時代には狩猟の対象となっており、縄文末期から弥生時代に栽培が始まる、主食のイネよりも長い関わりだ。日本は土地の80%が山地で、緑豊かな森林が多く、イノシシの生息に適していたのが、その理由といえる。
縄文時代、イノシシは狩猟によって貴重なタンパク源となったが、やがて畑作・稲作が盛んになるとともに、人との攻防が繰り返されるようになる。
わずかな平地で始まった畑作・稲作は、次第に森林や原野が開拓され、江戸時代には耕地化が一層進んで、一部の地域では山地斜面まで広がっていった。同時に、イノシシの生息地は減っていき、耕地に侵入して人々が苦労して育てた農作物を食べるようになる。そこで、人々は食糧を脅かす深刻な問題として、イノシシを捕獲したり、耕作地への侵入を防御したりと対策を迫られることになった。
その一つが「シシ垣」だ。現在残っているシシ垣は江戸時代に築かれたものが多く、獣害の脅威から集落を守る遺構・史跡として、その歴史を今に伝えている。

【種類1】早い時期に作られた「木垣」

イノシシの侵入を防ぐため、農民たちは耕地の周囲に防壁を設けた。シシ垣は「木垣」から始まり、石垣や土手へと発達していったとされ、これらすべてをシシ垣と呼んでいる。
「木垣」については、農事、軍事いずれに使われていたかが定かではないが、1370年頃の『太平記』に竹や木で作ったシシ垣についての記述があり、吉野ヶ里遺跡には木柵や堀が設けられていたという。
材料には、地元で最も調達しやすい樹木が使われていた。杭を建て横木を数本渡した簡易なタイプから、多くの松杭と人員によって築かれた1818メートルに及ぶ大掛かりなものまである。
ただ、木垣は2、3年しかもたず、短いサイクルで補修が必要なため、農民の負担は大きいものだった。

【種類2】防御に効果的だった石積みの石塁

近くで手に入る石材を利用し、台形に石塁を築き、外側に0.5メートルほどの深さの溝を掘ったのが、石積みのシシ垣。地域によって花崗岩、玄武岩、安山岩、石灰岩、砂岩などが使われ、沖縄ではサンゴも活用されている。最も効果的に防御でき、長期間に亘って使用できるため補修が少なく済むのが特徴だ。
個人が自分の耕地を囲ったり、共同で村全体に築いたり、また村同士が協力して大規模なものを築造したケースがある。
シシ垣には、山側と耕地のある内側のところどころに落とし穴を設けたものも多い。シシ垣に沿って移動したり、内側の耕地にまぎれこんだりしたイノシシを捕獲するためだ。石垣の石に穴を作り、そこから入った内側の地面に落とし穴を設けた例もある。
また、住民たちが往来するために、石積みを分断して木戸を作ったり、谷川を越える場合にはハシゴ用の木の柵を設けるなどの工夫が施された。

愛知県岡崎市にある石積みの「万足平の猪垣」は有形民俗文化財になっている

【種類3】身近な土を使え、石垣の次に長持ちする土塁

地面を掘り、土を積んだ「猪土手(ししどて)」といわれるシシ垣もある。
基本的には、外側に溝を掘り、その土を積み上げて土手を築くが、一部に周囲の石を積むほか、土手の上部に木柵を作り、木や竹を植えている。石塁と同様に、通行用の木戸を設けているケースもある。
土で築かれているため、溝が埋まらないよう管理することが求められた。

長野県の松本市と塩尻市にまたがる「鉢伏連峰西麓の猪土手」

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